「退位」に対して「ごゆっくりなさってください」というコメントを聞くたびに思うこと

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この記事のこの場所に「この記事には広告が含まれます」という一文が目立つように書いてあります(自画自賛?)
《以上広告アナウンスでした。以下本文》

「退位された後は、ごゆっくりなさってください」
「本当にお疲れさまでした。退位された後は、ご自分のお時間を使っていただきたい」

退位に関する報道がされるたびに、このような街頭インタビューが流れる。

しゃべっている本人たちは、本心から、善意で、そう思っているのだろう。

陛下への心からの敬愛からくる、ねぎらいの言葉である、と、私にも痛いほどわかる。

でも、退位に関する報道がなされるたびに、私から出てくる言葉は、陛下へのねぎらいの言葉ではない。

出てくるのは、ただただ、

「陛下、申し訳ございません。」

[当記事は、前身ブログ「はじめはみんな初心者だ」での記事「「退位」報道で「ごゆっくりなさってください」とコメントを聞くたびに思うこと」(公開日:2017/12/23)を、加筆・修正したものです。当ブログでの公開日:2018/08/07]

平成28年7月。

ニュースで報じられた「生前退位」という言葉に、痛みを伴う驚きを感じた。

(報道された当時は、自分のその感情をうまく表現できなかった。だがその年の、皇后陛下お誕生日に際し、宮内記者会の質問に対する文書ご回答で、

8月に陛下の御放送があり,現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。私は以前より,皇室の重大な決断が行われる場合,これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり,その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので,皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も,謹んでこれを承りました。ただ,新聞の一面に「生前退位」という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は,歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので,一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の感じ過ぎであったかもしれません。

宮内庁ホームページ、「皇后陛下お誕生日に際し(平成28年)」、”宮内記者会の質問に対する文書ご回答 ”、平成28年10月20日(木)。http://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/3
(参照2018-08-07)

と、お気持ちを語られていた。「驚きと共に痛みを覚えた」という表現に、感銘すると同時に、得心し、表現を流用させていただいている。)

これまで、陛下の健康を祈り、御代がこのまま永遠に続くと安易に考えていたわれわれ国民にとって、譲位のご意向は唐突に感じた。
だがそれは、われわれ国民が目をそらし続けていたいた結果であることを、ようやく気づかされた。

平成28年8月8日。

「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば 」が報じられた。

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば

宮内庁ホームページ、”同上”、平成28年8月8日。http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12
(参照2018-08-07)

お言葉を聞き、陛下のお気持ちが、この国と国民の未来を思い、象徴天皇の務めが安定的に続いていくことをひとえに念じてのことであることが、わかった。

陛下はこれまでも、「国民と共にあること」をお言葉にされ、実行されてきた。
公務では、公平さと政治的中立性に細心の注意を払われ、その中でできることを御身を削るようにお言葉にされ、ご活動されてきた。

文字通り、全身全霊であり、そこには、象徴天皇としての強い責任感のみがあって、無私そのものであられた。

しかし、次第に進む御身の衰えにより、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなるのではないかと案じられ、譲位のご意向をお伝えになられた。

憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しない。

「権能を持たない」ということは、裏を返せば、(一義的な)責任を持つ必要がないということでもある。
しかしそんな中、陛下は、国と国民の未来を思う重い責務を自らに課し、その責務を全身全霊で果たしてこられた。

陛下と国民の結びつきは、これまで培ってきた相互の信頼関係によって結ばれている。この結びつきは強固である。

ただ、陛下だけは、われわれが思うよりももっと遠くの未来の国と国民をも思い、そのために何が必要かを考えられたうえで、ご決断を下された。

そこにあるのは、「象徴としての務め」の重さであり、「自身が楽になりたい」という我意は全く存在しない。

「象徴としての務め」を果たしたくとも体が言うことを聞かなくなることを危惧し、将来の国と国民を思い、断腸の思いで譲位をご決断された陛下の心情をおもんばかったとき、私には、「お疲れさまでした」などという言葉は出せない。出るのは、

「陛下、申し訳ございません」

だけだ。

お言葉表明後に行われた議論でも、

「天皇は国政に関する権能を有しない」

を理由にして、陛下のお言葉に反するような動きもあった。また「陛下はお祈りされるだけでよい」、「陛下のわがままだ」、などと平気で口にする、自称「有識者」がいた。

陛下は、国と国民を第一に思い無私の精神でご決断を下された。この国で一番、公平中立であり、高度な結論を導き出された唯一無二の「有識者」であり「専門家」である。

それに対し、口先だけの自称家たちは、薄っぺらい「公」をひけらかして、私的な名誉欲を満たすように、もっともらしく語るだけだった。専門家としての中立性にも、清廉性にも、明らかに欠けていた。

政治においてこのような動きがあったことに、陛下には、国民としてただただ申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

来年には、退位の日を迎えるが、われわれにはまだやり残したことがある。

陛下はわれわれ国民を信頼し、ご決断をされた。

その信頼にこたえなければならない。

そしてわれわれ国民が陛下の信頼にこたえ、陛下もご安心なされた時こそ、心から申し上げることができる。

「ごゆっくりなさってください」

うわべの言葉だけではなく、この言葉を申し上げられる日が来るようにするのは、われわれ国民の責務である。

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