南青山児童相談所騒動に見る都市の排他性

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東京港区の南青山に建設予定の児童相談所を巡り議論が起きているようだ。

「話題になっている」ことを耳にするまで詳しく知らなかったので、改めて、確認してみた。「南青山」で検索してヒットした記事や、主要紙のホームページで検索して出てきた記事をざっと見た限りでは、反対意見があること自体は、すでに過去の説明会で出ていて報道されていたようだが、最近のワイドショーで反対派の分かりやすい発言が取り上げられて話題になったようだ。

今回、この件で注目したいのは、その是非ではなく、

「本来、自由で多様性に富むはずの都市部で、なぜ排他的な運動が起こるのか」

という点である。

この点について、「排他性」という傾向が、「場所」という要因ではなく「人」という要因で起こることを、考察したい。

1.都会と田舎のイメージの誤解

「田舎のような地域の結びつきが強いところはヨソ者に排他的で、都会のようなヨソ者の集まりは他人に無関心」

といったことは、いわゆる「都会」の南青山で今回の騒動が起きたことからも、思い込みに過ぎないことが分かる。むしろ都会の方が、同質的な集団が成立しやすいのだ。

どういうことかというと、人口の絶対数の問題で、田舎より、都会の方が人が集まるため、その分、田舎では、人がいなくておおざっぱな括りでしか作れなかった集団も、人口の多い都会ではより細分化された範囲で集団を作れる可能性が高いのだ。

学校のクラス分けで説明すると、人口の少ない田舎では、学年をまたいで一クラスにするが、都会では、区切られた地区の同学年でクラス分けし、状況によっては学力に応じて分けることもできる。この場合、「自分のクラス」というものを意識するとしたら、田舎のクラスに属する生徒と、都会の学力クラスに属する生徒が持つイメージは、それぞれ当然異なる。田舎のクラスの生徒は、自分のクラスに対して幅広く多様なイメージを持ち、都会の生徒は細分化された明確なイメージを持つ。この時の、「自分たちクラスメイト」と「その他」の違いの差は、田舎と都会とでは大きいものになる。

これと同じことが、南青山の問題でも生じている。つまり、都会では、一見すると、ヨソ者の集まりなので、多種多様な人物が集まっているように見えるが、実は、土地の値段を媒介にして、同じような年収・職種・家族構成の人間が集まりやすい(都市社会学でのバージェスの同心円理論)。南青山でもそういった同質的な集団が出来上がり、その集団イメージから外れたものを、異質なものとして排除することが、反対運動の目的になっている。

2.「個人の個性」と「集団の個性」の相関関係

この問題が、話題になって皮肉なのは、反対する側の論理が負のスパイラルに陥っているところである。

反対派の論理は、

「ブランド価値が下がる」

というものであるが、その反対意見の表明自体でむしろ下がったとみていいだろう。

ブランド価値を上げるのは、需要過多の場合だが、反対派の主張は、幅広い需要を増やすよりも、細分化された特定のタイプの人間のみを集めることになるからだ。

また、個人と集団の関係において、社会学者のジンメルが指摘したように、個性的な集団のメンバーは個人において同質的になっていく。つまり、南青山というブランドに固執する集団は、集団としては他の社会から個性的に見えるが、そのメンバーの個人個人は、集団の一員として同じように振舞うことを(直接的間接的に)強制されるため、個人の自由は少なく、同質的になる。

これは、反対派の主張が、「子供の教育環境」を重要視していることを思えば、更なる、皮肉である。反対派の主張は、南青山というブランドに個性を押し込めることになるからだ。良くも悪くも個性がより求められる時代に、逆行している。

3.都市における排他性と寛容性

ただ、誤解してほしくないのは、反対派がすべてではなく、受容派も存在するということだ。目を引く発言や声が大きいと、その主張だけに注目をしてしまうが、それがすべてでは決して無い。

したがって、南青山に住む人がすべて排他的になるわけではないし、排他的な人間が集まりやすい土地であるわけでもない。都市や田舎に関わらず、排他的な人間は存在し、寛容な人間も存在する。

つまり、これは、土地や場所の問題ではなく、人の問題である。

そして、集団に依存する人間が排他的になるのだ。

例えば、

  • 南青山ブランドに依存する住人
  • 特定のネットコミュニティに依存するネット住民
  • 国に依存する愛国者
  • 教祖に依存する新興宗教信者

などは、いずれも同じ仕組みである。

集団が悪だと言っているのではない。むしろ集団が無ければ個人の個性は存在できない。ただ、特定の集団に依存しすぎると、それは集団の個性と同じになってしまい、個人の個性を殺すことになる。だからこそ、たくさんの集団が必要であり、たくさんの集団と交わり、自立して自分から集団に対して適切な距離を取ることで、個人の個性が生きてくる。

以上が、今回の騒動から得られる教訓であろう。

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