この記事のこの場所に「この記事には広告が含まれます」という一文が目立つように書いてあります(自画自賛?)
《以上広告アナウンスでした。以下本文》
もはや、説明不要ともいえる「日大アメフト悪質タックル問題」。
2018/05/06に行われたアメリカンフットボールの日本大学と関西学院大学の定期戦で、悪質な反則プレーが行われた件は、アメフト関係者によって早い時期に指摘されていた。
三尾圭、”大学アメフト頂上対決で行なわれた不可解で危険なプレー”、2018年5月7日(月)17:34。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kiyoshimio/20180507-00084938/
(参照2018-07-30)
問題の発覚当初は、情報が錯綜し、監督から悪質タックルの指示があったかどうのかが明確になっていなかった。
スポーツ報知、”独占入手!タックル謝罪文 日大・内田監督、自身の指示には触れず「選手が違反行為」”、2018年5月17日5時0分。
http://www.hochi.co.jp/sports/ballsports/20180517-OHT1T50034.html
(参照2018-07-30)
だが、実際のプレー動画が繰り返し再生され内容が分かるとともに、アメフト関係者以外にも周知されるようになった。
私が、この件で以前別のブログに書いたのは、2018/05/17のことだ。その時は、まだ、公式発表と報道から伝わる関係者の証言のズレに、疑問点が多かったため、推測・仮定した上で、道徳問題の視点から取り上げた。
前身ブログ記事、”日大アメフト悪質タックル問題を道徳教材「○○君のタックル」として考えてみた”、2018/05/17。
http://t-hajime.webstarterz.com/nichidai-phoenix-tackle-doutoku/
(参照2018-07-30)
その後、
関西学院大学側の抗議会見、疑わしい日大側の説明、その後の選手個人と学校側の両極端な評価となった謝罪会見、連盟の処分、後手に回った日大側の処分
などと、様々な話題と内容の詳細が次々と提供され、明らかになっていった。
今回は、これまで明らかになった点を踏まえた上で、この件は、
「監督者から反則プレーを示唆されたときにどのようにふるまうべきか」
という「道徳的教材」として、非常に参考になるケースであることを論じたい。
[当記事は、前身ブログ「はじめはみんな初心者だ」での記事「日大アメフト悪質タックル問題を道徳教材「○○君のタックル」として考えてみた」(公開日:2018/05/17)に、その後明らかになった点を考慮して、加筆・修正したものです。当ブログでの公開日:2018/07/30]
1.道徳の特別教科化
平成27年3月の学習指導要領等の一部改正により、これまでの「道徳の時間」は「特別の教科 道徳」となることになった。(小学校は平成30年度から、中学校 は31年度から )。
文部科学省ホームページ、トップ > 政策・審議会 > 審議会情報 > 調査研究協力者会議等(初等中等教育) > 道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議 > 「特別の教科 道徳」の指導方法・評価等について(報告)、”「特別の教科 道徳」の指導方法・評価等について(報告) (PDF:1140KB) ”、平成28年7月22日。
http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2016/08/15/1375482_2.pdf
(参照2018-07-30)
報告書では、「現代的意義」、「時代の要請」などのもっともらしい理由付けがなされている。
だが、道徳は、法律や規則によって教えられるものでなければ、身につくものでもない。
論語でいえば、法律や刑罰をもって道徳を教えても、教えられた方はその刑罰を免れることだけを考えるだけだからだ。
「道之以政、齊之以刑、民免而無恥、
道之以徳、齊之以禮、有恥且格、」
論語、為政第二 3。金谷治訳注、”論語”、岩波文庫。第一刷1963年7月16日、第50刷1993年11月5日。p27。
「道徳という教科」という言葉自体に、
「内なる道徳律を、外形的に教えることの矛盾」
を含んでいるため、その内容は、どのような形になっても批判を避けることはできない。
そして、平成30年度から始まった小学校の「特別の教科 道徳」の教科書の内容で、疑問の的になったものの一つが、
「星野君の二塁打」
である。
2.「星野君の二塁打」とは
「星野君の二塁打」は、道徳の教材としてこれまでもよく取り上げられてきたようだ。(採用教科書などの地域差があるようで、私自身は、この話を小学生の頃に取り上げられていた記憶はない。)
作者の吉田甲子太郎氏は、児童文学者で1957年に亡くなっている。著作権切れの作品のテキストデータを公開している「青空文庫」では、「星野君の二塁打」は、1947(昭和22)年8月1日の版を元にテキスト化を進めている最中のようだ。
青空文庫、作業中 作品一覧:ホ、ページ2、No.71.
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/sakuhin_inp_ho2.html
(参照2018-07-30)
「星野君の二塁打」は、地域によっては道徳の教材として、昔からよく知られた存在のようだが、平成30年度からの道徳の特別教科化によって、混乱が生まれているとの記事が、週刊朝日に載ったことにより、注目を浴びたようだ。
AERA dot.、週刊朝日、亀井洋志、”教員たちも思考停止に…「道徳」で混乱する教育現場”、2018.4.16 07:00。
https://dot.asahi.com/wa/2018041300011.html
(参照2018-07-30)
「星野君の二塁打」の内容は、簡単に言えば、
「バンドのサインを無視して強振してヒットになって、結果的にチームは勝ったが、サイン無視の罰として、次の大会は出場をさせないと監督に言われた」
という話だ。
だが、全文を読めば、試合の状況や登場人物の心理描写もある程度記述されていて、読み込めばいろいろと話が膨らむところもある。
単純に、「規律の重要性」というだけでなく、たとえば、
- 選手を指示通りに動かせなかった監督の指導力の問題
- 「指導力 = 選手に罰を与える」ことの有効性の問題
- 少年野球での「チームの勝利」と「青少年の育成」の優先バランスの問題
- 野球の戦略論としての犠牲バンドの有用性の問題
・・・などなど、こういった点まで考えさせるものであれば、いろいろな考えを促す道徳教材として非常に有効であり、これまで取り上げられていた理由がよくわかる。
だが、道徳の「特別教科化」によって、この話が「規律の重要性」のみに指導・誘導されるのではないか、という危惧が、問題になっていると想像される。
3.道徳教材としての「星野君の二塁打」の問題
「星野君の二塁打」に対する道徳的内容についての不信感は、
規律に反したものには罰則が与えられる
と、単純に受け取られかねないことである。言ってみれば、罰則によって規律を守らせるという発想である。
諸子百家でいえば、法家の思想であるが、これが、「現代的意義」、「時代の要請」に沿ったものであるかといえば、首をひねらざるを得ない。
平成26年に行われた中央教育審議会の報告でも、
「道徳教育の本来の使命に鑑みれば、特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるものと言わなければならない。」
というように、罰則によって規律を守らせる発想は、道徳教育の本来の使命に反するからだ。
中央教育審議会、”道徳に係る教育課程の改善等について (答申)”、平成26年10月21日。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/__icsFiles/afieldfile/2014/10/21/1352890_1.pdf
(参照2018-07-30)
(だからといって、その点を克服するために、例えば、「過ちに気づいた星野君は自主的に試合出場を辞退しました」などのような、原文に対する「ぬるい改変」を求めているわけではない。「監督による処罰」という現実こそ、この問題の本質であり、これを道徳教材として取り上げる意味があるものだからだ。)
4.アンチテーゼとしての「○○君のタックル」
「星野君の二塁打」は、集団の規律の重要性を説くものではあるが、それだけでは、先の審議会報告が言うように、「道徳教育が目指す方向の対極にある」。
そこで、補足する教材として、適切なのが、今回の、「日大アメフト部の悪質タックル問題」である。
この問題を、道徳教材に最適化して要約すると、
「監督にやらなければレギュラーを外すと言われて相手選手に怪我を負わせるようなタックルをしたが、罪の重さに気づいてアメフトを辞めた」
という話だ。
ここに描かれているのは、集団の規律の大切さではなく、残酷さである。
個人では到底行うはずのない反則行為を、集団となったときに監督の命令の元で行ってしまう残酷さである。
現実社会では、このようなことが起こることを身をもって知り、そうしないために、どうすればいいかを考えることは、非常に大切なことである。
その意味で、この件を「○○君のタックル」として、道徳の教科材料にすることは、考えさせるという点で、大変意義のあることであろう。
5.「星野君の二塁打」と「○○君のタックル」
監督の指示に従わなかった結果、レギュラーを外された「星野君の二塁打」。
監督の指示に従った結果、アメフトを辞めざるを得なくなった「○○君のタックル」。
この二つは、現実に起こりうることであり、両極端な選択を迫られるケースである。そういった意味で、「星野君の二塁打」と「○○君のタックル」は、道徳教材として両輪となるものだ。
どちらか一つだけ取り上げても、不十分で、両方取り上げてこそ、意味がある。
その議論の中から、
- 「個人の目的」と「集団の目的」
- 「規律の重要性」と「自律の重要性」
こういった二項を、対立させるのではなく、調和させるようにする発想が出てくるだろうし、これこそ、今後、未来を背負っていく子供たちに求められる指針であろう。
いや、そんなお決まりの発想を飛び越えて、
「個人が突き抜けた才能と実力を持てば、監督の指示などどうでもいい」
という場合もあれば、
「監督なら変えればいいし、無理なら違うチームに移籍すればいい」
という場合もあるだろう。
いずれにせよ、ここで決めつける必要はない。考えることこそ、これからの時代に求められる道徳であるからだ。
そういった意味で、今回の「○○君のタックル」は、「星野君の二塁打」とセットとして議論することで、道徳教材として適切な話になるであろう。
まとめ
- 日大アメフト部の悪質タックル問題を道徳教材として考える
- 道徳教材としての「星野君の二塁打」の適格性
- 「星野君の二塁打」の問題点を浮かび上がらせる「○○君のタックル」
- 「星野君の二塁打」と「○○君のタックル」は二つで一つの道徳教材
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