「対案を出せ」という「火事の野次馬」以下の思い付き

「文句があるなら対案を出せ」
「批判ばかりでなく対案を示せ」

一見すると、もっともらしいことを言っているが、安易に「対案を出せ」との主張をする人物は、

火事場で見物しているだけの野次馬以下

の存在で、問題解決(火を消す)には害悪でしかない。この現象を、火事場にたとえることで、説明する。

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「コロナ・ピューリタニズム」はポスト資本主義の精神を生み出すのか

新型コロナウイルスの流行とその対策は、日常生活に大きな影響を及ぼした。そしてそれは今もなお現在進行形でありながら、「コロナ前・コロナ後」のように、時代を区切れるような変化を起こすことが、多くの識者などによって予測されている。

様々なメディアで、様々に出ている論考の中で、私が興味をひかれたのは、精神科医である斎藤環氏の「コロナ・ピューリタニズム」という言葉だ。

新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、我々は「コロナ・ピューリタニズム(CP)」ともいうべき奇妙な倫理観を持ち始めているのではないか―。引きこもりに詳しい精神科医で筑波大教授の斎藤環氏がネット上でそう提唱し、反響を呼んでいる。

読売新聞大阪本社版、文化部 小林佑基、「CP定着に警鐘」。2020年6月1日朝刊13版、文化面22面。

孫引きの紹介になって申し訳ないが、私がこの言葉を知ったのは、上記の読売新聞記事だった。その後、ネットで、斎藤氏の上記の提唱している文章を探し出し、読ませていただいた。

コロナ・ピューリタニズムの懸念

斎藤環(精神科医)、”コロナ・ピューリタニズムの懸念”、2020/04/20 12:49。https://note.com/tamakisaito/n/nffdc218a1854(参照2020-07-23)

そこで述べられている、「原罪」「禁欲」「倫理観」という言葉と、「ピューリタニズム」という喩えから、私が連想したのは、社会科学の古典、マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムと資本主義の精神」だった。

マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳、”プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神”、岩波文庫。1989改訳第一刷、1993第16刷。(原著は1920年)

今回は、コロナ下で発生した「コロナ・ピューリタニズム」がどのような影響を及ぼし、さらにはどのような経過をたどるのかについて、ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を参考にして、考察したい。

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童話「裸の王様」の登場人物のそれぞれのウソを分析する

以前、当ブログでは、童話「裸の王様」を取り上げ、その教訓について考えてみた。(”「裸の王様」の本当の教訓はどこにあるのか?”[2019/06/10公開])

公開してもうすぐ一年になろうという記事だが、最近になって、またぼちぼちと検索されて見られるようになった。どうやら、現実世界に「ハダカの王様」が出てきた影響によるものらしい。(個人の感想です。関係ありませんが、参考までに、別ブログ記事”(番外編)「はだかのあべ様」(森友問題バージョン)”[2018/08/29公開]。関係ありませんが。)

過去に書いた記事がこうやって再び見られるのはありがたい話だ。

ただ、以前書いた記事は、

・民衆は「王様は裸だ」と証明できたのか
・「態度を一変させた民衆」に注目してこそ教訓がある

というように、王様や子供よりも、「民衆」に注目して議論を進めた。最近になって検索して来てくれる人は、リアルな「ハダカの王様」をきっかけにしていると予想されるので、過去の記事では不十分に思えた。

そこで今回は、「態度を一変させた民衆」だけでなく、王様も含めた、「裸の王様」での様々な登場人物についての、それぞれのウソを分類・分析してみたい。

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「死んだら負け」だがそれを言うことが「勝ち」なのか

2020年(令和二年)3月17日、厚生労働省・警察庁から、2019年(令和元年)における日本の自殺者数についての統計が発表された。

平成22年以降、10年連続の減少となり、昭和53年から始め た自殺統計で過去最少となっている。

厚生労働省自殺対策推進室、警察庁生活安全局生活安全企画課、”令和元年中における自殺の状況”、令和2年3月17日。[p2、PDFページ4]。https://www.mhlw.go.jp/content/R1kakutei-01.pdf

そして、2020年(令和二年)3月20日(水)発売の、雑誌「週刊文春」(2020年3月26日号、株式会社文藝春秋)には、森友問題で自死された財務省職員の遺書の全文が公開された。

この自殺を巡る二つの報道は、それぞれに違った意味を持っている。

自殺者が減少しているという統計上の数字は出ていても、ゼロになったわけではなく、一つ一つの事例には、それぞれの数字にすることのできない影響を与える。

自殺報道が起きると、一部で湧き上がるのが、「死んだら負け」、という言葉だ。

今回は、この言葉について、考えてみたい。

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携帯電話に知らない番号で「○○保険の××です」と録音されていて初心者はどう対応したか

持っているもの

  • 知らない番号からの電話には基本的には出ない警戒心
  • 知らない人から留守電にメッセージを入れられた経験
  • 単なる間違い電話だったら、「また繰り返し電話されるかも」という迷惑さと、「間違っていることを教えてあげた方がいいのかな」と思う少しの親切心
  • でもそれに付け込んで電話させようとする(高度な)詐欺の可能性がありうるので、やっぱりこちらからは電話しない方がいいと思う警戒心
  • でもでも実際にどうなのかを知ってみたいと思う「いっちょかみ」な下心

持っていないもの

  • 知らない番号からの電話には絶対に対応しないという潔癖な決心

先日、昔からお世話になっている人とたまたま出会って雑談をしていると、思い出したように、次のように言われた。

「昨日、ケータイに知らない電話番号からかかってきて無視してたけど、また今朝もかかってきた。留守番電話に録音入っていたけど、心当たり無いから無視したほうがいいよね」

私も、「詐欺かもしれないので、基本的には無視した方がいいですね」と答えながらも、留守番電話に残されたメッセージを聞かしてもらうと、迷いが生じてきた。

その留守録に残されたメッセージに対し、警戒心と少しの親切心をもって、恩着せがましく初心者がどのように対処したかを、再現したい。

[本文の再現内容は、伝聞やだいたいの記憶によるものがあり、また、人物名や企業名等に配慮して、表現の一部を脚色・変更しています。]

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「裸の王様」の本当の教訓はどこにあるのか?

「王さまはハダカだ」

子どもの発したこの一言で、世間は一変した。大人たちも次々と同じように「王さまは裸だ」と口にし、さっきまでは堂々としていた王様も恥ずかしそうにパレードを続けざるを得なかった。

このよく知られたおとぎ話は、権力者が取り巻きに囲まれて威張っているさまをからかって、「あの人は裸の王様だ」などと使われる。

主に、「裸の王様」の一般的な教訓として取り上げられるのは、

・子どものように正直に言うことの大切さ
・ミエや世間体を気にしてダマされる偉い人(王様)の滑稽さ

のように、子どもサイドか王様サイドのどちらかから見たものがほとんどだろう。

だが、今回ここで取り上げたいのは、子どもと王様ではなく、

態度を一変させた民衆

である。

ここにこそ、「裸の王様」の真の教訓がある。そのことを説明したい。

童話「はだかの王さま」についての主な参照先は、

ハンス・クリスチャン・アンデルセン Hans Christian Andersen、大久保ゆう訳、”はだかの王さま The Emperor’s New Suit”、1999年12月24日初訳、2007年5月19日作成。http://www.alz.jp/221b/aozora/the_emperors_new_suit.html(参照2019-06-10)

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「平成最後の昭和の日」を振り返る

ここしばらく日本中にあふれていた、期間限定の「平成最後の○○」バーゲンセールももうすぐ終わる。
(そういえば、「バーゲンセール」に代わって「クリアランスセール」と言うようになったのはいつのことからだろう。)

「平成最後の○○」の大安売りが行われている中、今日、4月29日は、平成最後の「昭和の日」でもある。

平成も残り二日となった今、あえて「昭和の日」を、個人的な思いから、振り返ってみたい。

公開:平成31年4月29日

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改ざん社会の末路―大阪府警を参考に

改ざんという妖怪が日本中を徘徊している

もはや例示の必要がないほど、日本中に改ざんが行き渡っている。

その一方で、改ざんに対する「慣れ」とでもいうべき態度も、蔓延しつつあるようだ。

改ざんに慣れた社会、その「なれの果て」はどのような社会なのか、ここでは大阪府警をその先駆的な例として取り上げ、参考にし、考察してみたい。

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南青山児童相談所騒動に見る都市の排他性

東京港区の南青山に建設予定の児童相談所を巡り議論が起きているようだ。

「話題になっている」ことを耳にするまで詳しく知らなかったので、改めて、確認してみた。「南青山」で検索してヒットした記事や、主要紙のホームページで検索して出てきた記事をざっと見た限りでは、反対意見があること自体は、すでに過去の説明会で出ていて報道されていたようだが、最近のワイドショーで反対派の分かりやすい発言が取り上げられて話題になったようだ。

今回、この件で注目したいのは、その是非ではなく、

「本来、自由で多様性に富むはずの都市部で、なぜ排他的な運動が起こるのか」

という点である。

この点について、「排他性」という傾向が、「場所」という要因ではなく「人」という要因で起こることを、考察したい。

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「退位」に対して「ごゆっくりなさってください」というコメントを聞くたびに思うこと

「退位された後は、ごゆっくりなさってください」
「本当にお疲れさまでした。退位された後は、ご自分のお時間を使っていただきたい」

退位に関する報道がされるたびに、このような街頭インタビューが流れる。

しゃべっている本人たちは、本心から、善意で、そう思っているのだろう。

陛下への心からの敬愛からくる、ねぎらいの言葉である、と、私にも痛いほどわかる。

でも、退位に関する報道がなされるたびに、私から出てくる言葉は、陛下へのねぎらいの言葉ではない。

出てくるのは、ただただ、

「陛下、申し訳ございません。」

[当記事は、前身ブログ「はじめはみんな初心者だ」での記事「「退位」報道で「ごゆっくりなさってください」とコメントを聞くたびに思うこと」(公開日:2017/12/23)を、加筆・修正したものです。当ブログでの公開日:2018/08/07]

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