「金の卵を産むガチョウ」の身を切る「核共有・核保有の議論」

イソップ童話に「金の卵を産むガチョウ」というお話がある。

語り継がれてきた寓話は、シンプルだが、深い教訓を与えてくれる。経験が少なくて世の中のことをよく分かっていない子供たちにも、分かりやすく伝えることができる。

私が、このお話を思い出したのは、最近、突然、「核共有・核保有の議論をすべきだ」と語り出す人間が増えたためである。

子供に限らず、「世の中の事をよく分かっていない」「無知で無恥な」大人たちにこそ、このおとぎ話を捧げたい。

「金の卵を産むガチョウ」のあらすじ

「金の卵を産むガチョウ」はイソップ童話に含まれるお話だが、「どんな話だったっけ?」と思う人や、中には、他の童話と混同している人もいるかも(みんながくっついて離れない「金のガチョウ」のお話の方がなじみがあるかも)しれないので、簡単なあらすじを再現。

ある農夫の飼っているガチョウが、金の卵を産むようになり、農夫は大金持ちになる。だが、農夫はそれに満足せず、「ガチョウの体の中には金塊があるに違いない」と考えてガチョウの腹を切り裂くが、中身は普通のガチョウと変わらず、ガチョウは死んでしまい、金の卵を得ることは二度と無くなった。

[以上の内容は、個人的な経験と記憶による再現です。当記事を書く際に、「これがベスト」と言える適切な原典を探し出せなかったので、とりあえずの記憶で再現しました。なお、私はこの話の事を思い出した時、「金の卵を産むニワトリ」だと勘違いしていましたが、検索して正確には「ガチョウ」であることに改めて気付きました。上記でのあらすじの内容や表現は、「金の卵を産むガチョウ」で検索した際に検索ページに出てきた内容に影響されている可能性もあれば、異なっている可能性もあります。][一般的なあらすじに関しての主な参照:ガチョウと黄金の卵 – Wikipedia(参照2022-03-10)]

「金の卵を産むガチョウ」の教訓はどこにあるのか

「金の卵を産むガチョウ」の教訓として、シンプルに思いつくのは、

「欲張るな」

ということだろう。

ただ、それだけであれば、他の童話やことわざでも、散々伝えられてきた。

思いつくだけでも、

「二兎追うものは一兎も得ず」、「金の斧銀の斧」、「アリとキリギリス」、・・・

などなど。欲張った末に痛い目に合うお話やことわざはたくさんある。

具体例を挙げて「欲を張っても物理的に無理」だと教えるもの(二兎追うものは一兎も得ず)もあれば、正直さや勤勉さこそが得(徳)だから「欲を張るな」と伝えるもの(金の斧銀の斧、アリとキリギリス)もある。

教訓やことわざは、類似する表現が多い。(一方で、正反対のことを述べることも多い)。

それだけ、人は、同じような悩みや問題を抱え、どのように対処すればいいかを、試行錯誤していろいろとたとえることで伝え続けてきた、とも言える。

そんな中で、「金の卵を産むガチョウ」のお話が伝えられてきたのは、それらの類似の寓話やことわざでは「表現しきれない何か」があったからだろう。

「金の卵を産むガチョウ」が特徴的なのは、

欲張った末に何も得られないどころか、これまで得てきた利益(卵)を産み出すものを完全に喪失する

ことにある。つまり、

取り返しのつかなさ

が、教訓として強く残るものにしている。

他の寓話やことわざでは、「取り返しのつかなさ」の面が、「金の卵を産むガチョウ」と比べれば弱い。

例えば、「二兎追うものは一兎も得ず」では、いくら失敗しようが何度でも再挑戦できる。一方で、「一石二鳥」を信じて挽回は可能だと思う人もいるだろう。(それが泥沼になるかもしれないが)。

「金の斧銀の斧」では、欲に釣られた隣人がわざと普通の斧を投じるコストをかけて、金銀の斧のリターンを目指すものの失敗している。だが、無くした斧は、同等のものを手に入れることは可能だろう。

それらの話に比べれば、「金の卵を産むガチョウ」では、

・自分から積極的に、より大きな利益を取りに行った(ガチョウの腹を切る)
・結果、これまで利益を生んできたものを失ってしまった(二度と卵を産まなくなった)

と、欲に目がくらんで、大事な大事な虎の子の唯一無二のものを失ってしまうという、

取り返しのつかなさ

がより強調され、教訓となっている。

[備考:ちなみに、「金の卵を産むガチョウ」の教訓の逆バージョンを上げるとすれば、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」が挙げられる。]

「核共有・核保有の議論」と「裸の王様」

と、ここから(少し飛躍して)、「核共有・核保有の議論」についての「議論」(と言うほどでもないお話)をしたい。(念のために強調しておくと、「核共有・核保有」の議論ではなく、「(同省略)の議論」の議論、である。)

まず確認しておきたいのは、

「核共有・核保有の議論をタブー無くすべきだ」と(威勢のいいことを)言っている人間はいるが、実際に「核共有・核保有の議論」をしている人間はどこにも見当たらない

ということだ。(個人の感想です)

日本の核共有や核保有については、シンプルに、政策的、技術的な面、戦略的、戦術的な面を考えても、ハードルが高く、デメリットの方が大きい。別に「タブー」でも何でもない。

「専門家」でもない私でも、国際条約違反による制裁、核実験場所、原材料資源の確保、周辺諸国への核拡散の連鎖、基本的には「使えない兵器」、核兵器の保管管理・運搬手段、制空権の確保、反撃能力を確保するための軍備、「核ボタン」を誰が押すのか、・・・といくつでも問題が浮かび上がる。

このような「核共有・核保有」の現実的な問題点を指摘する人はいるものの、「議論をすべきだ」と言う当人がその問題点について答えることはない。なぜなら、「議論をすべきだ」と言っているだけだからだ。議論できるだけの知性や知識があるかどうかは、別問題だ。これでは議論になるわけがない。

と、ここで(さらに飛躍して)、「裸の王様」でたとえることにしたい。

おそらく、「タブーなく議論すべきだ」と言っている本人は、「王様はハダカだ」と初めに叫んだ子供を気取っていることだろう。「私はタブーを恐れず真実を叫んでいる」と。

が、実際はどうか。

そのほとんどは、「最初に言い出した子供」ではなく、「言っても大丈夫だと確認してから、あとから同調して叫びだした大人たち」に過ぎない。

言っても大丈夫そうだと確認出来てから、叫び出す。もはや「タブー」でも何でもない。

結局のところ、安全な場所でちょっとした「タブー」を犯した気分を味わいたいだけだ。「言いにくいことを言ってやってやった。そんなオレはスゲー」。これが目的であり全てである。

ここにいるのは、

・「議論すべきだ」と言うだけの人(子供が「王様はハダカだ」と叫んだあとに叫び出す大人たち)
・「核共有・核保有」の問題点を指摘する人(第三者:「裸の王様」の読者)

である。

おとぎ話の中の人間と、読者とでは、議論が成立するわけがない。

[以上の「裸の王様」の解釈については、当ブログ記事
「裸の王様」の本当の教訓はどこにあるのか?
童話「裸の王様」の登場人物のそれぞれのウソを分析する
を参照。]

見せかけの「タブー」の旬の短さ

「タブーなく議論をすべきだ」との発言は、公益と言うよりも、私的な欲を満たすものである側面が強い。

義憤の薄皮をまとっているが、その中身は、「自分はこんなタブーを踏み込んで言ってやっている、そんなオレ、スゲー」という自己満足に過ぎない。違うというのなら、議論できるだけの論点を提示すべきだろう。(問い詰めても、どうせ、「私は議論を提示しただけだ」とごにょごにょと言うだけだろうが。)

ところで、このテの、自己満足が目的の発言は、はやりすたりがある。

このテの、同種の発言を上げていくと、

「人を殺してなぜ悪いの?」
「不倫は文化だ」
「いじめられる方も悪い」
「風俗を活用すべきだ」
「MMTで解決」「都にすれば解決」「5類にすれば解決」

などなど。[当ブログ”「裸の王様」の本当の教訓はどこにあるのか?”ほか参照。]

このテの発言は、議論を目的としていない。「こんなことを言ってやったオレスゲー」と言う自己満足だ。地方の方言で言えば、「イキッている」。

議論するだけの知識も知性も初めから持っていないため、問い詰めればすぐにフェードアウトする。

さらに、「タブー」と強調すればするほど、かえって手あかが付いて「タブー」感は薄れていく。

旬である時期は短めだ。

自己満足が目的なので、「発言」する内容はどうでもいい。

今回、「タブーなく議論すべきだ」と言っている人間は、上記の内容と似たようなことを、旬に合わせて発言して、自己満足を繰り返していることが予想される。

その意味では、今回の「核共有・核保有の議論」も、現実を突きつけられて、フェイドアウトしていくことだろう。(そもそも、上記で述べたように、初めから「議論」している人間は存在しないが)。

「真のタブー」なのは「日本独自の核抑止力」

フェイドアウトすることが予想されているのなら、これで話を終えてしまえばいいかもしれない。

だが、「核共有・核保有の議論」の問題は、フェイドアウトするものではない。

この「議論すべきだ」との発言が真に問題なのは、「議論」を提示した時点で、これまで保持してきた、大事な、

「日本独自の核抑止力」

を失ってしまうことだ。

「非核国なのに独自の核抑止力?」と思うかもしれない。

本来の意味では、「核抑止力」とは、核を持つことで相手の核使用を抑止することを意味する。日本の場合は、同盟国であるアメリカが核を保有しているので核抑止力が間接的に働いている。

そんな、非核国日本の「独自の核抑止力」とは何か。

それは、

広島・長崎での経験

にほかならない。

多大な犠牲を生み、今もなお苦しめている被爆経験。

体験者のお話、それを引き継ぐ伝承者、惨禍を伝える資料、それらを学び「二度と繰り返すな」とする国民の決意。

これらすべてが、「日本独自の核抑止力」である。

その経験があるからこそ、全世界に対し、核の不使用、核の廃絶を訴えることができる。

ところが、「タブーなく議論すべきだ」との発言は、この「抑止力」を台無しにさせる。

「あの日本人が見直しを言い出しているのなら、犠牲も許容できる範囲なんだろう」と理解されることになるのだ。

繰り返すが、「議論をすべきだ」との発言は、自己満足に過ぎない。義憤の薄皮をまとってはいるようには見えるが、一皮むけば、「こんなタブーを言えるオレスゲー」との私欲にまみれている。

その私欲から出た発言が、「広島・長崎での経験」という「日本独自の核抑止力」を毀損している。

自己満足の軽い発言が、どれだけ「国益」を毀損しているのか。

「議論すべきだ」と知識も知性もないのに叫んでいる人間には、その想像力が決定的に欠けている。

「金の卵を産むガチョウ」の真の教訓

だいぶ遠回りしてしまったが、ここで、「金の卵を産むガチョウ」の話だ。


日本には、多大な犠牲の上に成り立った、「広島・長崎の経験」という、「金の卵」がありました。

[注:多大な犠牲の上にある悲惨な経験を、「金の卵」と表現するのは、不適切だとも思います。不快に思われた方にはお詫び申し上げます。ただ、真の教訓を理解するために、あえてこの言葉で表現することをお断りしておきます。]

この経験があるからこそ、「核の不使用、核の廃絶」を、全世界に説得力を持って伝えることができました。

ところが、日本人の中で、欲張りな凡夫が、自己満足のために、「核共有・核保有の議論をタブーなくすべきだ」と言い出しました。

しかし、中身は空っぽでした。

そして、日本人が「核共有・核保有」の検討をしていることが全世界に伝わり、「広島・長崎の経験」の説得力は失ってしまいました。


寓話「金の卵を産むガチョウ」での教訓、

取り返しのつかなさ

が、ここで再現されている。

欲張った人間が自己満足だけのために「議論すべきだ」と叫び、多大な犠牲の上に成り立っている「広島・長崎の経験」の価値を失わせる。

「ガチョウ」の身を切った結果、本当に大事なものを失ってしまう。

「身を切る」などと威勢のいいことを言っている人間が増えているが、それが「金の卵を産むガチョウ」を殺すことになっていないか、大人こそ、寓話から学ぶべきだろう。


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