「死んだら負け」だがそれを言うことが「勝ち」なのか

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2020年(令和二年)3月17日、厚生労働省・警察庁から、2019年(令和元年)における日本の自殺者数についての統計が発表された。

平成22年以降、10年連続の減少となり、昭和53年から始め た自殺統計で過去最少となっている。

厚生労働省自殺対策推進室、警察庁生活安全局生活安全企画課、”令和元年中における自殺の状況”、令和2年3月17日。[p2、PDFページ4]。https://www.mhlw.go.jp/content/R1kakutei-01.pdf

そして、2020年(令和二年)3月20日(水)発売の、雑誌「週刊文春」(2020年3月26日号、株式会社文藝春秋)には、森友問題で自死された財務省職員の遺書の全文が公開された。

この自殺を巡る二つの報道は、それぞれに違った意味を持っている。

自殺者が減少しているという統計上の数字は出ていても、ゼロになったわけではなく、一つ一つの事例には、それぞれの数字にすることのできない影響を与える。

自殺報道が起きると、一部で湧き上がるのが、「死んだら負け」、という言葉だ。

今回は、この言葉について、考えてみたい。

「命」を懸けた言葉の威力

命を懸けた主張というものには、どうしても心を動かされる。

上記で示した、森友問題での遺書もそうだし、昨年公開された目黒虐待死での「ゆるしてください」のメモには感情が揺り動かされざるを得ない。

切腹や特攻などが、その具体的な結末以外のメッセージ性を持つのも事実だ。

冷静でいることができなくなっても当然であろう。

「命」を懸けた主張の魔力

ただ、その一方で、命を懸けた主張には、歯止めをかける必要がある。そうでないと、命をかければ一方的に自己の主張を通せることになり、命の価値が(主張が通るかどうかに関係なく)軽くなってしまうからだ。

典型的なのは、先の大戦での泥沼となった日本政府・軍部の判断だ。

中国大陸で流した「同胞の血」という理由で、撤兵できずに、対米戦を引き起こし、特攻という「統率の外道」を行い、住居を焼け野原にされ、沖縄を戦場にし、原爆を二発落とされ、外地に多くの居留民を残し、聖断によってしか戦争を止めることができなかった。

中国大陸で流した「同胞の血」が、さらに数十、数百倍もの「血」を流すことになった。

死者が生者を引きずり込むことになってしまった、あまりにも悲劇的な例である。

「死んだら負け」という言葉の抵抗力

「命」を懸けた主張が、生きている者を過剰に縛ってしまわないように、これまで人は、知恵を絞ってきた。

強烈な主張を伴う死者に対して、鎮魂と称して祀ることも、その対処法の一つだ。

非日常的な儀礼を通すことで、日常生活との区切りをつけることができた。ある文化・文明で伝えられてきたそれぞれの儀礼という形式は、これまでそれぞれの民族・民衆が培った知恵ともいえるだろう。

だが、その風習・風俗が薄まった現代では、別の方法を取ることになる。

これまで培ってきた儀礼による知恵を信じられない人間は、現実的な言葉を使うことで、「命」を懸けた言葉に対抗する。いわゆる、山本七平が「空気の研究」で指摘した、「水を差す」ということだ。[山本七平、”「空気」の研究”、文春文庫。1977,1983,1990]

死者の強烈な主張に対して「水を差す」言葉の中でも、「死んだら負け」と言い放つことは、現実に引き戻す強い力を持つ。

「死んだら負けなんだから、止めましょう」

感情を揺り動かす「命」を懸けた主張に対して、まさに「水を差す」言葉であり、現実的な提示をすることによって、理性を取り戻すことができる。

感情に支配される場で、あえて水を差す言葉を述べることで、我に返ることができる。

ある意味では便利な言葉と言っていいだろう。

ただし当人や遺族の前では劇薬

ただし、この便利な言葉「死んだら負け」は、使い方によっては劇薬になる。

確かに、「死んだら負けだから生きよう」というように、生きる力に変える可能性は持っている。

だが、「自死」を考えている人は、既に追い込まれている状態にある。その人にとって、「死んだら負け」という言葉は、さらに絶望に追い込むことになる。この言葉自体が、最終的に「自死」に追い詰めるきっかけになりかねないのだ。

生きる力に変える可能性があるかもしれないからといって、「自死」に追い詰めかねない可能性がある言葉を安易に使うべきではない。

[補足:これと同等の仕組みとして、「いじめられる方も悪い」という言葉がある。この言葉も、「いじめられっ子」が奮起していじめを克服する言葉になる可能性はあるが、思い詰めている子にとっては絶望に追い詰められる言葉になる。特に、勇気を振り絞って先生に相談した時、返ってきた言葉がこれであれば、「いじめられっ子」にとっては、最後通牒のように聞こえ、自死を選ぶきっかけになりかねない。だからこそ、教育現場で「いじめられる方も悪い」という言葉は決して言ってはならない。]

また、遺族にとっては、「死んだら負け」という言葉は何の慰めの言葉にならない。

例えば、特攻隊の遺族に対して、

「特攻隊が、命を懸けて敵に突っ込んでいこうが、戦争の勝敗に影響は与えなかった。死んだら負けですから」

というのは、無神経すぎるだろう。

「自殺を防ぐため」と称する善意があるからと言って、特攻隊の遺族に対して、「死んだら負けですから、特攻は無駄死にでした」と言える無神経さが許されるわけではない。

「死んだら負け」と言える資格

「死んだら負け」という言葉は、感情に突き動かされる力に対して、水を差して現実に引き戻す力を持っている。

だが、その一方で、自死を考えている当人をさらに追い詰め、遺族を傷つけるだけの言葉になってしまいかねない。

まさに劇薬であり、安易に使える言葉ではない。

実際の劇薬がそうであるように、「死んだら負け」という言葉は、相手の症状、タイミング、場所、雰囲気、言葉の強さ、相手との信頼関係、日頃からの関係性、など、あらゆる状況を考慮した上で、慎重に慎重を重ねた上でしか、使えない。もしこれらのことを考えられないのであれば、「死んだら負け」という言葉を使うべきではない。その資格はない。

「死んだら負け」ということで、何かを言った気になっているだけであれば、その言葉の重さを、改めて自覚すべきだろう。

「死んだら負け」と言えることは、「勝ち」になるわけではない。


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