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「居眠り議員を見ると腹が立つ」
「居眠りするぐらいなら議員定数を減らせ」
こう発言すれば、「政治」を語っているつもりになれるかもしれないが、冷静になって欲しい。
果たして本当に、議員定数を減らせば、「居眠り議員」はいなくなるのか。
「怠惰な居眠り議員」を切っているつもりが、「眠る時間を削って働いている議員」を切っていないか。
童話「金の卵を産むガチョウ」のように、欲張って切ってしまい大事なものをすべて失ってしまう取り返しのつかないことになってしまわないか。
「居眠り議員」を取り上げたショート動画を見て、その怒りで「議員定数を減らせ」と主張する人たちは、
議員定数を減らせば「居眠り議員」の割合がもっと増えるだけ
という、皮肉な結末になることを分かっていない。少し考えれば分かることなのに。
「居眠り議員への批判」をすることは、知識や知性をあまり必要としないだけに、簡単に利用されるが、問題解決には害悪でしかない。この仕組みを、「分かりやすく」説明する。
「居眠り議員」を叩くことが「政治」なのか
「居眠り議員」は分かりやすい。
その分かりやすさゆえに、利用しやすく、利用されやすい。
税金や社会保障や安全保障についてだと、率直な意見を言っただけで、ここかしこからここぞとばかりにもっともらしい反論を集中して受けてしまう。政治一般について語ろうとすると、経験と知識が必要になる。
一方、「居眠り議員」を批判するのに、知識はいらない。過去、授業や会議で、自分が眠いのを我慢した経験さえあればいい。
「居眠り議員」を批判しても、わざわざ誰も反論してこないので、知識は不要で自分の経験さえあればいい。
「ワタシはあんなに眠いのを我慢して授業や会議に出席したのに、議会で眠っている議員はけしからん」
分かりやすいからこそ、選挙に出る側にとっては、人気取りに利用しやすい。
分かりやすいからこそ、投票する側にとっても、共感しやすく、知識が無くても政治を語った気になれる。それゆえに、(他の誰かによって)誘導されやすい。
「居眠り議員」は見て分かりやすく、目にしただけで腹が立ちやすい。
「居眠り議員」はイメージしやすい。
イメージなので、具体的な内容は問われない。「居眠り議員」の個別の事情などはどうでもいい。極端な話、「居眠り議員」が実在するかどうかでさえもどうでもいい。
「居眠り議員」を批判するのに、知識や知性は必要ない。
知性はむしろ邪魔になる。知性があれば、これが私憤に過ぎないことに気付くからだ。
「居眠り議員」を批判さえしておけば、「政治」を語った気にさせてくれる。誰からも反論されないという安心感もある。
「居眠り議員」は分かりやすいから、批判しやすい。
このように、「居眠り議員を批判する人」は、分かりやすい。
「居眠り議員」への批判と「議員定数削減」の矛盾
「居眠り議員を見ると腹が立つ」
これ自体は、率直な感情だろう。
過去、眠い目をこすりながらツマラナイ(理解できない)授業を聞いていた経験や、長々とした会議であくびをかみ殺していた経験がある人にとっては、他人が居眠りしているのを見ると、イラっとする。
それが特に、公開されている公的な場所、しかも民主主義社会の根幹である議会で、(いつもはエラソーにしているセンセイが)堂々と寝ている姿をさらしているのは許せない、と感情的になるのも、当然かもしれない。
ただそれは、
「ワタシは眠いのを我慢しているのに、オマエラは堂々と寝やがって」
と、私的に嫉妬しているだけで、公的な政治とはあまり関係ない。
ましてや、その理由で、
「議員が居眠りできるのは、暇で退屈だからに違いない。そんなに暇なら、議員を減らせ」
と、定員を減らすことが「政治」だと考えているのなら、それは、思い込みによる私怨、もしくは思い込まされた「大衆心理」でしかない。
冷静になって考えてほしい。
役所の窓口で行列になって待たされてイライラしているからといって、いきなり「職員を削減しろ」とクレームをつけるのか。むしろ逆で、「窓口を増やせ」と言うのが当然だろう。
授業中に寝ている生徒がいれば、そのクラスの生徒数を減らすことが解決策なのか。真面目に授業を受けている生徒まで減らすことにならないのか。
仕事中に寝ている奴がいれば、その部署の人員を減らせば解決するのか。寝ている原因が、人手不足による過労だった可能性を考えないのか。人手不足で寝不足で居眠りをしてしまうようなクソ忙しい部署の人員を、増やすのならまだしも、さらに減らしてどうするのか。
例えば、サッカーで、試合中キーパーがあくびをしたからといって、「そのキーパーを引っ込めろ」と言うのは分かるにしても、「キーパーを減らして10人で戦え」とは言わない。
例えば、公共の乗り物に乗っていて、もし仮に運転手がウトウトしていたら、すぐさま注意して停車させるのが当たり前だが、停車させずに「運転手を減らせ」とは言わない。
例えば、役所の窓口やコンビニのレジで行列ができているときに、待たされてイライラしているからといって、「窓口(レジ)を削減しろ」とクレームをつける様なヤツに、つけるクスリはない。
冷静になって考えてほしい。
「居眠り議員」に対して、まずやるべきことは、
その場で起こしてあげる
それだけだ。
ひょっとしたら、意識を失っているかもしれない。居眠りだとしても、何らかの疾病を抱えているのかもしれない。健康でも、家族を含めた個人的な事情で最近は睡眠がとれていないのかもしれない。喫緊な政治的課題に取り組んでいて連日寝る間もなく働いた結果、ついつい会議中に寝てしまったのかもしれない。ひょっとしたら、議会に出たくないイイワケとしてオバケとゴキブリが出て眠れないとしょうもないウソをついているかもしれない。などなど。
そうして個別の事情を知ることによって、どう対処すればいいのかを、初めて、考えることができる。
「議員定数削減」が生む未来の結末
「居眠り議員」の個別の事情を知ろうとはせずに、何とかの一つ覚えで、「議員定数削減だ!」と主張するのは、短絡的で、安易すぎる。衆愚以外のなにものでもない。
確かに、「議員定数を減らす」ことは、実数としての「居眠り議員」を減らすだろう。
全体の定数を減らせば、個別の実数が減るのも当たり前だ。何の工夫も無い。リストラや(自分以外の)誰かの身を切れば「改革」になると思っている連中が安易に考えそうなことだ。
蛇足:
このように「改革」を自称しているケースでは、結局のところ、「当事者(多くの場合は被害者)に全責任を押し付ける」ことでしかなく、それをすることが「勇気ある決断」だと勘違いしていることが多い。当ブログでも以前取り上げた「いじめられる方が悪い」が醜悪な例であったように、責任を持つべき人間たちの自己満足に過ぎない。自維を国ような真似をしているだけだ(原文ママ?)。
また、リストラの例で言えば、どこかの自動車会社が外国人を社長にして社員のクビを切らせリバイバルしたものの、その社長に横領(容疑)された挙句、国外に逃げられたことは、ジューク・・・じゃなかったジョークにもならない。裏金と共に去りぬ。だっとさん(「だっふんだ」の発音で)。
しかしその減らした定数の中には、「仕事をしてきた議員」も含まれており、
「議員定数を減らすこと」は、「仕事をしない議員」よりも「仕事をする議員」を減らす
失敗した未来(みらい)にしかならない。そんなチームは辞めてしまえ。
少し考えればわかることだが、削減理由が「居眠り議員」だった場合、残った議員たちは、
「議場での居眠りだけは見られない様にする」
ことに特化するだろう。それが「(議員定数を削減した)民意」だとして。
その結果、何が起こるか。
議員が「議場での居眠りだけを避ける」ことに特化した場合、睡眠時間を確保するため、議場以外での仕事を極力減らすようになる。
議会がある時だけは起きていられるコンディションを維持するために、さまざまな現場への視察は避け、不特定の有権者や記者たちとの面会はシャットアウトし、特定の支持者にしか会わない。
そして、議場では、眠くならないように、頭を使わずに脳を疲れさせないことだけを第一に考え、議論の内容は二の次になる。
蛇足:
「議場で寝ない事だけを目標として常日頃コンディションを整える」というのは、アスリートに近い。その意味では、「元スポーツ選手」の「政治家」としての適性は高いと言えるかもしれない。ただしそれは、「議場で居眠りしない」ということだけに特化した(知識も知性も必要ない)「民意」を反映したものに過ぎないが。
まじめに仕事をすればするほど、人員が削減され、残された人間の負担が増えていって、睡眠時間が削られていき、そんな疲労困憊の中、たった1回ウトウトしたところを見られただけでアウトになるのなら、誰もまじめに仕事しようとは思わなくなる。
「仕事しない居眠り議員」を落とすつもりで議員定数を削減したら、「仕事をしてきた議員」がいなくなり、残ったのは「仕事はしないが議場で居眠りだけは見せない議員」だけ、という皮肉な結果になりかねない。
むしろ、「(隠れて見つからないように居眠りする)居眠り議員」のような、ある意味、要領のいい奴の方が生き残る可能性が高い。
そうして、「議場での居眠りだけは見られない様にする」ことに特化した議員が多数を占め、そのような議員がトップに立った時、次に起こるのは、
「議会を非公開にし、議会自体を減らす」
ことに権力を使うようになる。
こうして議会は形骸化され、独裁が始まる。
リストラや身を切るの対象があなたに向いたとき。あなたを守るものは、もういない。
あなたが切ってしまったから。
「居眠り議員」を見て、議会の定数を削減するのは、愚の骨頂。
「居眠り議員」に対するあなたの分かりやすい怒りが、(他の誰かに)利用されて、のせられていないか。
(誰かに)思い込まされた怒りにかまけて、誰かのクビを切っているつもりが、自らの首を絞めていないか。
知識と知性もなく、私的な怒りを誰かに利用された、愚か者の未来。
これは未来の話ではなく、目を背けたままの、すでに起こっている現実なのかもしれない。
(おまけ)今すぐできる「議員定数削減」
[注:以下グロテスクな表現が含まれます。もっとも、ここまでも、表現的にはそうでなくても内容的にグロテスクだったかもしれませんが。不快に思われる方は、ここでページを閉じてください。]
「一丁目一番地」なのか、「センターピン」なのか、どっちかに決めてほしいが、「議員定数1割削減」とかいうものを、本当に実現したいのなら、
それを主張する政党が議席を返上すればいい
だけの話だ。
ほら、「対案」を示してやったぞ。今すぐ「実行」しろ。
「一割削減しても同じ仕事ができる」と自ら認めているようなものだから、少なくとも、党所属の議員の一割をすぐにでも辞職させるべきだろう。
「実行力」を売りにしているのだから、今すぐにでも自党の議員を辞職させればいい。他党との協議も必要ない。
・・・と言っても、それを「実行」することはないだろう。「自分の身」は切りたくないのだから。
それとも、自党所属の議員の1割は、だいたい不祥事を抱えていていずれ離党や辞職する予定なので、実質削減できると踏んでいるのだろうか。
そもそも、「身を切る改革」と言っているヤツが、実際に切っているのは常に他人の身で、身内の身を切ることはない。
「身を切る」ことの愚かさは、童話や歴史から学ぶことができる。
童話「金の卵を産むガチョウ」では、飼っているガチョウが生んだ金の卵で大金持ちになっただけでは飽き足らず、金を直接取った方が効率的だと考え、ガチョウの腹を切り裂いたものの金を見つけられなかった挙句、ガチョウを殺してしまったことで、二度と金を手に入れられなくなってしまった。
この童話の教訓を生かせないものは、新たな寓話を産み出し、後世に語り継がれていくかもしれない。
むかしむかし、あるところに、「儲からないものは切っていく」として、文楽やオーケストラなどの文化をつぶし、代わりに(低俗な)笑いとニンジャショーと電飾だけが残った愚か者の町がありました。その町では、「飲む打つ買う」の言葉通り、「打つ」の博打(カジノ)を合法化し、続いて、「買う」、つまり「売春の合法化」を実現させ、そうして「身を切る改革」に喝采を送った愚かな住民たちは、貧しくなって最後に「身を売る」ことになるましたとさ。おそろしおそろし。
効率化を目指して切っていった先に何があるかは、フランス革命後の混乱からも、学ぶことができる。(注:私は歴史学の専門家でもなく、フランス革命史についての講義を受けたこともない素人であり、以下、正確性に欠ける内容が含まれている可能性があることを、前もってお断りしておきます。)
フランス革命では、多くの血が流れ、絶対王政廃止後の共和制下でも多くのクビがギロチンにかけられた。
フランスでは、革命後の共和制下で、議会について、シェイエスのものだと言われる、
「第二院は、第一院と同じであれば不要であり、反対であれば有害である」
(原典不明。私の検索能力では確認できませんでした。参院不要論でよく出される文章の、個人的に過去見聞きしてきた不確かな記憶からの再現であり、正確性に欠けています)
という思想に基づいて、国民公会に一元化されたが、そこで起こったのが、反対派をギロチン送りにする恐怖政治だった。
反対派をことごとくギロチン送りにした挙句、恐怖政治を主導したロベスピエールも最後はギロチンにかけられ、その後に軍事独裁を招き、歴史は繰り返した。
多くの軍事政権がそうであるように、財政的には一時的に好転する。平和時には不要な軍隊こそが「ムダ」であり、その不要だった人員が行政を行い、それまでの行政官はクビになって、人件費の「ムダ」が解消されるからだ。
だが、これも多くの軍事政権がそうであるように、素人による行政の運営はそうそうに行き詰まる。そして本当の危機が訪れたときに、対処ができない。そのために平時に準備していた「ムダ」は、すでに自ら切ってしまったからだ。にっちもさっちもいかなくなった結果、行き詰まりを解消するために、持っている武力で、住民を弾圧するようになる。「使わなソンやろ」というばかりに。
外からの侵略に向けられて備えたはずの武力が、内への住人に対する弾圧に用いられる。
そうして歴史は繰り返される。
身を切って切って切りまくって、反対者をことごとくギロチン送りにした恐怖政治の主導者が、最後に、ギロチン送りにされる。
身を切る町の前任者の二人は、このことが分かっていたかもしれない。切っていった先には、自分が切られることを。自分たちに喝采を送っている愚かな住民とは違って。
そうして責任者だった前任者二人は、自分がギロチン送りにされることを恐れて、住民投票が否決されたことを理由に、ここがチャンスとばかりに逃げ出せた。
三度目の歴史は。