松本人志と森脇健児、いま本当に「オモロイ」のはどっちなのか?

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《以上広告アナウンスでした。以下本文》

有名なお笑いコンビ・ダウンタウンの一人、お笑い芸人・松本人志氏が活動休止する、とのニュースを聞いた。(当記事公開時の情報)

休業に至った経緯、それに対する擁護や批判、さらにそれに対する反応、などを、ここで述べるつもりはない(私にはその知識も能力も労力もない)。

今回の件を受け、私が思いついた問いは、

松本人志さんと森脇健児さん、いま「オモロイ」のはどっち?

というものだ。

おそらく、多くの人にとっては、この質問は、ナンセンスで愚問とも言えるだろう。

なぜ、私がこんな問いを思いついたのか、そして個人的にどう結論付けたのか、説明したい。

当記事は、お笑いタレント(もしくは芸人)として著名な、松本人志さんと森脇健児さん、その他の芸能人等について、一視聴者として見てきた素人による個人の感想です。
一視聴者の素人が、個人的にテレビやラジオで見聞きしてきた(うろ覚えを含む)記憶を元に、当該人物のことを(無責任に)振り返るものであり、情報の正確さを保証するものではありませんし、登場人物の実像を正確に表すものでもありません。おそらく、とんちんかんなことを言っていると思います。
素人の一視聴者が芸能人に対してテレビを見ながらあーだこーだと言っている内容を再現するため、以下、登場人物については、敬称を略します。また、本来なら、書く内容の事実確認のため、念のために調べ直して確認できた場合は参照元を明記しますが、今回は個人的な記憶を元にしているため、参照や引用の確認はほとんどしておらず、省略しています。以上のような理由から、今回の本文は、敬意と正確性が欠けていることを前もってお断りし、おわびいたします。ご了承ください。
不快に思われた方は、途中でもページを閉じることをおススメします。

1.松本による「かつらいじり」

ある時から、ダウンタウン松本は、「芸能人のかつらいじり」を始めた。高視聴率を誇る番組内でのことだ。

[注:これは個人の記憶なので、正確性に欠ける表現かもしれない。「始めた」といっても松本が「かつらいじりの創始者」というわけでもないし、たまたま私が見たときにその話題をしていたから「松本がそんなことを始めた」と感じただけで、実際にはデビューからずっとやっていたけど私が目にしていなかっただけかもしれない。あるいは、収録の時に観客の前では繰り返して言っていたけれどそれまでは編集上採用されずにテレビで流れていなかっただけなのかもしれない。ただ、ラジオや地方ローカルの深夜番組ではなく、高視聴率の東京キー局番組で「かつらいじり」が放送で流れたことに、印象に残っている。]

もちろん、放送上では編集されており、個人が特定されるような部分にはピー音が入り、その後に、観客やスタッフのものと思われる驚きや笑い声が続いていた。

不快に思った。

[補足:外見を揶揄することに対しての怒りだけでなく、ピー音で分からないじゃないか、という野次馬的な怒りもあったかもしれない。笑っている観客に対して、外見で笑うなという怒りと、なぜおまえたちだけがピー音の内容を知っているのだという怒りもあったかもしれない。]

しかし、だからと言って、私はチャンネルを変えたりテレビを消すなどの具体的な行動をすることはなかった。それまでと変わらず、ダウンタウンの出演する番組は熱心に見続けていた。多くの部分では面白かったからだ。また、揶揄する相手が、大御所と思われる芸能人相手(推測)であるから、「弱い者いじめ」ではないので大目に見よう、という言い訳も思いついていた。

私は黙認していたことになる。

その後、「かつらいじり」はテレビで広がっていった。

松本と関係ないところで他の芸人も使いだし、編集でもカットされずに放送されるようになった。もっともそのころには、松本も飽きたのか、松本自身は「かつらいじり」を積極的にするようなことはなくなったようだ。

ただ、「かつらいじり」という下品な笑いの取り方が、それほど罪悪感もなく、採用されるようになり、テレビで放送されるようになった。

[補足:念のために補足しておきますが、ここで言う「かつらいじり」とは、松本らの言葉で言えば「ズラいじり」であり、落語家の桂(かつら)一門を松本が「イジっていた」ことを指摘するものではありません(逆に、「三枝(当時)や文珍ら桂一門の落語家たちを松本は一切イジってなかった」と証言するものでもありません)。]

2.松本による「あいつオモンナイ」

松本の笑いの才能が世間に広く認められる中、松本は、他の芸人が「オモンナイ(面白くない)」ことをネタにし始めた。

笑いの才能に対するシンプルな批評ではなく、「オモンナイのに人気がある」という、「○○なのに××」というギャップによる笑いの組み立てだ。

私は、この悪口まがいの笑いに不快に思いつつも、これまでと変わらず、ダウンタウンの番組を見続けていた。

「オモンナイのに人気ある」、「人気あるのにオモンナイ」という言葉は、「人気がある」という評価が前提にあるため単純な悪口ではなく、むしろ褒めている要素があるのかもしれない。「これは人気者に対する悪口であり、単純な弱い者いじめじゃない」という、以上のような理屈を私は作り出していた。

私は黙認していたことになる。

しかし、「オモロイ」の権威になりつつある松本が、特定の芸人に対して「オモンナイ」と言ったらどうなるか。相手が人気者だったとしても。

あの「オモロイ」松本が「オモンナイ」と言ってる、アイツで笑うとセンスが無いとみなされる―。

「笑い」には繊細な面がある。同じ言葉でも、「オモロイ」と言われている人から発せられた言葉と、「オモンナイ」と言われている人から発せられた言葉とでは、笑いの起こり方が異なる。

「オモロイ」の権威となりつつある松本によって、「オモンナイ」とレッテルを張られることは、芸人にとって致命的になりえた。(もちろん、「オモロない」を売りにする芸人人気も存在するが、あくまで「オモロないことがオモロイ」ことを売りにしている)。

[補足:実際、その脅威は、大御所芸人とも言える存在にも降りかかっていた記憶がある。うろ覚えの記憶から、いくつかの場面を再現すると、
志村けん「アレ、オレのことじゃないだろうな」
タモリ「オレのこと、バカにしてるだろ」
(いずれも松本は笑いながら否定したところまでがセット。テレビで見たり伝聞で語っているのを聞いたりしたうろ覚えの記憶からの再現のため、正確性には欠けています。)
大御所芸人と言われる存在ですら、松本の「(ピー音で伏された芸人名)オモンナイ」には反応せざるを得なかったのだろう。]

3.「オモンナイ」のターゲット

その主なターゲットとなったのが、当時、レギュラーを多数抱えていた、中山秀征と森脇健児だった。

もちろん、放送では、ピー音で伏せられていたが、熱心な視聴者であれば、松本の言う「オモンナイ」のは、あの芸人のことだな、と想像できた。(ネットが今ほど発達していなかった当時でも)

[補足:
松本は、コラムで、レギュラー本数の多さを誇ってネタにしている芸能人に対して、数よりも質だという点から批判していた。
また、松本は、トーク番組で、あるコンビを揶揄した。昔、ネタ番組で番組制作者から他のコンビとテーマが重なるからネタを変えろと言われた上に、そのコンビから「オマエら、オモロイらしいな」と上から目線であいさつされたが、そのコンビのネタを見たら全然面白くなかった、と笑いにしていた。
松本は、これらの人物やコンビについて、特定はしていなかったが、中山秀征(とそのコンビ)であることは、すぐに分かった。(当時の個人の理解であり、正解だったかどうかは分かりません)]

ただ、中山秀征に関しては、それほど影響はなかったように見える。

中山は、もともと、「オモロイ」と言うよりは「楽しい」「明るい」を売りにしている印象が強く、ファン層もそれほど重なっていなかったのかもしれない。

中山自身の(「笑い」に限らない)実力があったのは間違いないが、中山の人脈、事務所・業界スタッフとの関係等もあって、松本による「オモンナイ」の影響をあまり受けなかったと想像できる。

[補足:お笑いコンビ千鳥の大悟が、学生の時に学園祭で司会なんて簡単にできると思ったが上手くできず「秀ちゃんすごかったんや」と思ったという話をしていた。それをテレビで聞いたとき、個人的にいろいろなことが腑に落ちた。]

一方、松本による「オモンナイ」の影響をモロに受けたのが、森脇健児だった。

森脇健児も、中山秀征同様に、「オモロイ」と言うよりは「楽しい」「明るい」を売りにしている印象が強かった。

ただ、中山と違って、人脈・事務所・業界スタッフとの関係などによる「力」は弱かったのだろうか。「森脇健児オモンナイ」という雰囲気が、業界に広がっていくのを、一視聴者に過ぎない私でも、テレビを見ていて感じ取れた。

松本本人と言うよりも、松本周辺の取り巻きとも言える芸人やスタッフが、ネタのように「森脇健児オモンナイ」と口々にし、へらへら笑いながら、松本のご機嫌を伺っているように見えた。

不快だった。

しかしだからと言って、私は森脇健児をかばうわけでも応援するわけでもなかった。気がつけば、森脇健児がテレビに出ているシーンを見ると、ウケていないことを確認するようになった。

「笑い」には繊細な面もある。「オモロイ」の権威になりつつある松本に「オモンナイ」と指摘された芸人は、何を言ってもウケなくなってしまう。以前はウケていた話でも、全くウケなくなっていた。

しばらくすると、森脇健児はテレビから見なくなった。

備考:話は少しそれるが、芸能人の名前がネタになることについて。
「○○(芸能人の名前)」がパワーワード(オチ)として使われることには、時代や地域によって流行がある。(思いつくままに過去の例を挙げれば、「ムツゴロウさん」、「アッコさん」など。今で言えば、「アン・ミカ」がその代表例か。)
たとえば、松本や森脇が新人として大阪で活躍していたころは、「野村のよっちゃん」が大阪ではブームになっていた。もともとは嘉門達夫がこの言葉をオチにしたコミックソングを歌ったのが嚆矢だと私は理解しているが、松本の番組で「野村のよっちゃん」をオチにすることがブームになり、少し遅れて、森脇の出演するテレビやラジオでも視聴者やリスナーからの投稿ネタのお題として取り上げられ、パワーワードとして使われていった。
一般人の投稿でウケるぐらいのパワーワードなので、実力のない芸人もこのワードさえ言えば笑いを(安易に)取れていた。森脇健児の番組でも「野村のよっちゃん」は多用されていた。
その約10年後に、「森脇健児オモンナイ」が松本周辺でパワーワードとして使われて森脇が致命的ダメージを受け、さらにその約20年後の現在、「松本人志」という言葉は格好のパワーワードになる条件を備えたのにもかかわらずパワーワードして「使えない」状況にあるのは、皮肉と言うべきだろうか。

4.「森脇健児は今が一番オモロイ」

東京から関西に戻った森脇は、出演番組は激減したものの、芸能活動は続けた。

その後の動きとしては、高視聴率番組の芸能人マラソンで活躍し、さらに数年後、マラソンやボクシングに全力で取り組む姿勢がネタになり、お笑いトリオ・安田大サーカスの団長による森脇健児モノマネを筆頭に、後輩芸人たちも森脇健児という存在の人間的おもしろさをおもしろおかしく伝えていった。

そのネタに対して、松本周辺にいた吉本所属の芸人たちも、自身の番組でおもしろがって取り上げるようになり、森脇健児で笑っていた。

「森脇健児」という言葉は、いつの間にか、「オモロイ人間」というパワーワードとなっていた。

森脇健児がデビュー後にテレビに出始めてから、人気があるときも人気が落ちたときもずっと森脇を見てきたある視聴者は、こう言った。

「森脇健児は今が一番オモロイ」

[補足:この言葉は、私の知人(素人)の話から引用させてもらった。
長年、森脇健児のラジオリスナーである人が、世間話で「森脇健児のラジオを聞いている」と言ったとき、相手にバカにされたような態度を取られたので、「森脇健児は今が一番オモロイ」と自信をもって答えた、とのことだ。
この話を聞いたとき、いろいろなことを納得し、今回の象徴的な言葉として、引用させてもらった。]

5.松本のオモロさとは

一方、「オモロイ」の権威となった松本は-。

ここまで言及してきた内容だけだと、まるで松本は、「かつらいじり」や「オモンナイ芸人批判」などの、他人を容姿や資質を傷つけて笑いを取るだけの、ツマラナイ芸人のようにしか見えないかもしれない。(松本がよく口にしていた「ヨゴレ芸人」のように)。

誤解されるかもしれないが、松本のオモシロさが世間に受け入れられたのは、発想の突飛さにあるのではない。単に突飛なだけであれば、そんな芸人はいくらでも存在する。

[補足:
笑いを生む大きな要素の一つが、常識との絶妙なズレである。(ズラではない。)
そのズレが笑いになるのだが、そのさじ加減が難しい。しかも、常識もまた、状況によって変化する。同じ言葉でも時代や場所が変わればウケ方が違ってくる。
常識とのズレは、完全にズレてしまえばそれはズレではなく別物として扱われる(突飛な芸人の「突飛さ」がこれに当たる)。一方、ズレが小さすぎてほぼ同じに見えてしまっても意味がない。また、ただ単に異なるモノの共通点だけを強調しても、それは「トトノう」だけの話で、感心にはつながっても爆発的な笑いにはならない。]

松本は、世間とのズレを限界ギリギリのところを突く才能に長けており、かつ、(おそらく脳内で数多くした発想の中から)その状況で一番ウケることを選ぶ能力にも長けていた。

松本には、最後にぼそっと言った一言で笑いをさらうイメージが強いため、正解とも言えるそのボケだけを思いついたように見えるが、実際には、数多く想定したボケの内で、その状況で一番ウケると思われるボケを瞬時に選んでいる。そこでは、数多くの採用されなかった発想が切り捨てられている。

[補足:もちろん、思いついたことを我慢できずにそのまま発言することで爆笑をさらう芸人も存在する。「さて誰でしょう」と問題を出せば、お笑いが好きな人であれば何人かすぐに思いつくのではないつだろうか(原文ママ)。]

絞り出した発想の多さと、その状況にあったベストのものを瞬時に選定する能力、この二つの特徴が松本の笑いを唯一無二のものにしていた。

6.オモロイのはどっちなのか

そして今現在の松本の状況。

極端に言えば、何を言ってもウケていた状況から、何を言ってもウケない状況になりつつある。かつての森脇健児のように。

今の状況で、松本が笑いを取るのにベストな言葉が存在するのだろうか。

松本の同期や後輩芸人たちも、「今の松本」について聞かれても、「ツマラナイ」コメントしかしない。いつもはテレビではコメンテイターとして、様々なことに対して(大して興味もないくせに薄っぺらい知識で)それらしくコメントをしているが、今回、自身が関係するこんなど真ん中の内容に対しても、同じように当たり障りのないコメントしている。

誰も口にしないが、「松本(について語るのは)オモンナイ」という空気が、漂ってきている。松本に近しかった芸人ほど、「ツマラナイ」コメントしかしない。

[参考:
今回の件とは比較にならないかもしれないが、元大阪府知事がわいせつ行為を認めて辞職した時、元トリオだった上岡龍太郎は
「だから初めから言ってたやろ、あいつはやったに違いない、と」(個人の記憶による再現で正確さに欠けています)
と言っていた記憶がある。
「あいつはやった」という発言が絶妙なのは、「事実でない」場合は近しいものほど冗談として受け取られやすい一方、「事実であった」場合は「その通りのことを正直に言っていた(近しい関係なのに)」ということになり、どっちに転んでも対応していることだ。もちろん、被害者の方(被害を訴える人)が存在するので、この発言が適切というわけではなく、また、今回の件の対応法として推奨するものでもない。ただ、今回の件で、事実かどうかは別として、「あいつはやったに違いない」という発言をあえてするものが(松本と近しい芸人の内で私の確認する限り)存在しなかったということは、今回の松本側の対応のまずさが指摘される中では、象徴的に思える。]

同僚や後輩のお笑い芸人たちが、松本のことで、「ツマラナイ」ことしか言わない。松本がよく口にしてきたであろう言葉で言えば、お笑い芸人がそろいもそろって「スベッている」。

このことは、状況を見る能力に秀でた松本自身が、誰よりも一番よく分かっているのではないか。

同僚や後輩たちが、そろいもそろってスベッている。
オレが、同僚や後輩たちを、スベらせている。

「オモロイ」の権威となっていた松本は、当然のように、様々なお笑い賞レースの審査員として求められ、箔付けとして不可欠となっていた。様々なお笑い賞レースの審査に駆り出されて、コメントして言語化していくうちに、松本自身も、「ウケる・ウケない」の状況判断の基準がより一層明瞭になっていったであろう。

その「審査員・松本」が、「今の松本」を見たとき、どういう評価を下すのか。

「今の松本」に対して、「お笑い芸人松本」だったら、どんな言葉で「イジる」のか。

その松本自身の判断であり結論が

活動休止

ということであるのなら。

当ブログタイトルの問いである、

松本人志と森脇健児、いま本当に「オモロイ」のはどっちなのか?

の答えは、松本にとっては、もう出ているのではないだろうか。

以上が、当ブログタイトルの質問に対しての、現時点での、答えである。

(あくまで、個人の記憶と憶測による現時点での個人的な結論であり、実際には的外れなことを長々と言っている可能性があります。また、将来、状況が整理されて、再び「オモロイ」になる可能性を否定するものでもありません。)

おまけの補論.いじめの構図における松本人志の存在について

本論については以上だが、松本による「森脇健児オモンナイ」の発言とその影響については、「いじめ」の構造を説明するのに分かりやすい題材になっているので、おまけの補論として、追加で述べておきたい。

誤解を受けないで欲しいが、この件を「松本による森脇へのいじめ」とだけに単純に処理するつもりはない。おそらく当人たちにも、そんな認識はないだろう。

[補足:
森脇自身はウケなくなったことを「実力不足がバレた」と率直に語っており、松本やその取り巻き周辺に対しての恨み言を述べているのを(私は)聞いたことがない。
また、仮に松本に責任を問うたとしても、「結局、みんなもそう思ってたやん」とうそぶくだけだろうということも想像できる。]
[追加補足:
ただし、今回の件がそうであるかどうかは別にして、注意しておきたいのは、「いじめられている人」は「いじめられていることを認めたがらない、隠したがる」ケースがあることだ。自尊心から認められない面もあるが、「親に心配かけたくない」から黙って耐えている場合がある。この「心配かけたくない」と思ってずっと耐えていた人が、「いじめられている」ことを認めて親や先生に告げるのは、よっぽどのことで、告げられた方は、まずは第一に受け入れて欲しい。つらかったな、今まで心配かけまいとずっと独りで我慢してたんやな、でも黙って相談してくれないのもつらいんやで、心配かけていいんやで、必ずどこかに助けてくれる人が世の中にはいるんやからな。
時折、バカが発言する「いじめられる方も悪い」はアドバイスでも何でもない。被害者に責任を押し付けて声を上げさせなくさせるだけ(最悪の場合は自殺に追い込む)で、耳に貸す必要は全くなく、クソの役にも立たない。そいつらは、教育のことを一切語る資格がない。]

松本自身は、それほどしつこく、個人名を明示して「森脇健児オモンナイ」と繰り返したわけではない。

松本はきっかけに過ぎない。

しかしそのきっかけで、松本の取り巻き連中が、森脇叩きを始めた。

ここまでの流れは、典型的ないじめのパターンで、今更あえて述べるつもりはない。ただただ醜悪だっただけだ。

今回、取り上げたいのは、

「(この醜悪な)いじめを目の当たりにしながら何もしなかった第三者」

への影響だ。

一視聴者であった私を例として挙げたい。

松本の「森脇健児オモンナイ」をきっかけに、松本周辺の取り巻き連中が森脇叩きに走るのを、醜悪に思いながらも、私はただただ傍観していた。

ただただ森脇をかばう勇気がなかったからだけなのだが、醜悪なものを見せられている不快さを感じていた。

その醜悪さを見せられるいらだちと、いじめられている側をかばうことすらしない自分の弱さから逃れるために、次第と、「森脇健児はオモンナイから仕方がない」と思うようになっていた。

いつしか、私も、「森脇健児オモンナイ」の加担者になっていた。

いじめを目の前にしながら何もできないなら何もできないなりに何もしなければいいのに、その自分の何もできなさに耐えきれなくて加担する方に回っていた。そこにあるのは、ただただ自分の都合だけだった。

自分に勇気がないことを認める勇気もなく、何もできない自分の弱さから目を背け、結果的に、強いものにこびへつらうものになっていた。

[備考:
この心理は、権力側に容易に利用される。トップが白々しいウソをついているのにそれをウソと言えない支持者たちは、そのうしろめたさを隠すために、ウソを指摘した方を一生懸命に叩く(参考12)。
最近の例で言えば、「ボランティアは行くな」が挙げられるだろう。その発言は、「ボランティアに参加しない自分」という罪悪感から逃れるために、いろいろな理屈をつけて「そもそもボランティアは今必要ない(だから何もせずにボランティアにも参加しない私は悪くない)」という本末転倒の主張を一生懸命行っている。本来なら、一義的に責任を持つ行政に向かうべき怒りが、叩きやすい相手に向かって消費されている。]

いじめを目の前にしながら何もできなかった勇気のない自分
何もできないだけでなく、何もできない自分に耐えられなくていじめられている方に責任を押し付けた自分

勇気がないなら勇気がないと認め、せめて第三者で終わっていればまだマシだったものを、それすら認められないがゆえに、無自覚に、加担者になっていた。

そのことに気付いて以来、私には、その時の罪悪感がずっと残っていた。そしてその罪悪感を他の誰かに利用されないようにと肝に銘じることにした。

[備考:
その罪悪感が残っていた故に、今回の松本の件で森脇のことを思い起こし、取り上げた。もちろんこれで罪滅ぼしになったとは思っていないし、森脇もこんなことを望んでいるわけではないだろう。今回の件で、「昔ひどい目にあいましたが仕返しできて、めでたしめでたし」と昔話めいたことを言いたいわけでもない。ただただ、罪悪感ゆえに、その罪悪感を権力者に無自覚に利用される可能性があることを、伝えたかった。]

義を見てせざるは勇無きなり

誰だって勇者になれるわけではない。勇気が無いのはみんな同じだ。

「あの時何もできなかった」後悔は誰にだってある。

ただ、その後悔を他の誰かに利用されるな。

あなたの神ではないものにへつらうことなかれ

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