童話「裸の王様」の登場人物のそれぞれのウソを分析する

以前、当ブログでは、童話「裸の王様」を取り上げ、その教訓について考えてみた。(”「裸の王様」の本当の教訓はどこにあるのか?”[2019/06/10公開])

公開してもうすぐ一年になろうという記事だが、最近になって、またぼちぼちと検索されて見られるようになった。どうやら、現実世界に「ハダカの王様」が出てきた影響によるものらしい。(個人の感想です。関係ありませんが、参考までに、別ブログ記事”(番外編)「はだかのあべ様」(森友問題バージョン)”[2018/08/29公開]。関係ありませんが。)

過去に書いた記事がこうやって再び見られるのはありがたい話だ。

ただ、以前書いた記事は、

・民衆は「王様は裸だ」と証明できたのか
・「態度を一変させた民衆」に注目してこそ教訓がある

というように、王様や子供よりも、「民衆」に注目して議論を進めた。最近になって検索して来てくれる人は、リアルな「ハダカの王様」をきっかけにしていると予想されるので、過去の記事では不十分に思えた。

そこで今回は、「態度を一変させた民衆」だけでなく、王様も含めた、「裸の王様」での様々な登場人物についての、それぞれのウソを分類・分析してみたい。

童話「はだかの王さま」についての主な参照先は、

ハンス・クリスチャン・アンデルセン Hans Christian Andersen、大久保ゆう訳、”はだかの王さま The Emperor’s New Suit”、1999年12月24日初訳、2007年5月19日作成。http://www.alz.jp/221b/aozora/the_emperors_new_suit.html(参照2020-05-10)

童話「裸の王様」でのウソの種類

童話「裸の王様」では、まずサギ師が、お金儲けを目的とし、相手をダマすウソをつく。

物語では、そのサギ師による、

「バカには見えない服」

という「ウソ」を中心に話が進む。

だが、ウソはサギ師によるものだけではない

他の登場人物たちも、そのウソをきっかけにして、様々な理由で次々と様々なウソをついていく。

まず、王様は、バカにされたくないために、見えているとウソをつく。

家来や民衆たちも、バカにされたくないために見えているとウソをつく。それは王様と同じだが、それ以外にも、王様への迎合や忖度、従属などを理由としたウソも混じっている。

「王様はハダカだ」と一番初めに叫んだ子供だけは、「真実」を語ってはいる。ただし、これは、結果的に「真実」になっただけだ。仮に、この発言が無視されたり、否定されてしまっていれば、ウソをついたのは子供の方にされてしまう。状況によっては、真実を語っていることが、ウソをついたことにされてしまうことがあり得るのだ。少し強引だが、子供の発言も、また、ウソになりえる。

その意味では、登場人物全員ウソつき、とも言える。

ここでは、これらのウソを分類し、

・「騙し(だまし)ウソ」
・「見栄っ張り(みえっぱり)ウソ」
・「おべっかウソ」
・「パワハラウソ」
・「声援ウソ」
・「場違いウソ」

と名称を付け、それぞれの登場人物について議論をしたい。

サギ師のウソ

まず、童話「裸の王様」では、サギ師は、お金もうけのために、

「バカには見えない服」というウソ

を作り上げる。

そして、物語は、

「バカには見えない服」というテーマ

を中心に話が進む。

この「バカには見えない服」がウソであることを初めから自覚しているのは、登場人物の中では、サギ師のみだ。

王様も家来も大人たち民衆も、「バカには見えない服」という仮想現実を、初めは受け入れたうえで、(自分には見えないけど)見えたとウソをついている。

つまり、サギ師と他の登場人物のウソの大きな違いは、

「バカには見えない服」というウソのテーマを作り上げたのがサギ師で
「バカには見えない服」というテーマを受け入れた上でウソをついたのが他の登場人物

というところにある。

サギ師のウソは、相手を意図的に騙す(だます)ことを目的としているため、

騙し(だまし)ウソ

と分類したい。

王様のウソ

王様は、「バカには見えない服」というテーマを受け入れたうえで、自分には見えていないのに、「見えた」とウソをつく。

これは、「バカにされたくない」という、王様の見栄、虚栄心がある。

見えていないのに見えたと言っているので、これは、

見栄っ張り(みえっぱり)ウソ

と分類したい。

そもそも、このウソが通用するのは、「見えたか見えないか」が自己申告だからである。

王様にとって重要なのは、「服が見える」ことではなく、「バカだと思われたくない」ことであり、「服が見えた」と発言すれば、とりあえずはその場はしのげる。しかも、その立場上、あとのつじつま合わせは家来たちがしてくれる。

権力を持つ王様は、本来なら、自分が見えないことを正直に話し、見えない理由をサギ師に追及すべきであった。それだけの権力を持っているのだから。

王様(権力者)が見栄によってウソをつくことの責任の重さは、限りなく大きい。

[ただし、王様が正直に「見えない」と言ったとしても、サギ師が「それは王様がバカだからです」と答えるはずがない。その場ですかさず、「さすが王様、実は・・・」というように、わざとウソをついていた設定に変えるだろう。元も子もない話だが、ただ、王様が正直に尋ねることによって、少なくとも、「バカにしか見えない服」というテーマがウソであることは周知される。王様には家来たちに「王様のおっしゃる通りです」と言わせる権力がある理屈と同様に、王様にはウソを確認できるだけの力がある。それだけ、王様(権力者)がウソをつくこと・ウソをまかり通させることにすることの責任は重い。]

家来たちのウソ

物語では、王様は、家来たちに、何度か、服の製作の進捗状況を確認させに行っている。

家来たちはその都度、見えていないのにもかかわらず、「立派な服」だと報告している。

家来たちもまた、「バカにされたくない」という思いで、「見えた」という「見栄っ張りのウソ」をつく。

だが、家来という立場は、自身への見栄だけでなく、権力者への迎合・忖度といった力が働く。

「王様が見えていると言っているのだからそれに従おう」
「王様が立派な服と言っているからとりあえず褒めておこう」
「王様に恥をかかせたくない」
「王様の怒り・不興を買いたくない」

などの、権力者に対する様々な力が働く。

権力者への追従、ご機嫌取りをするウソは、

「おべっかウソ」

と分類し、

権力関係によりウソを強要されるケースは、

「パワハラウソ」

と分類したい。

家来たちのウソは、このどちらかに当てはまると言うよりも、両方の要素が混ざり合い、立場や相手に合わせて、その濃淡が出る、と見ていいだろう。

家来たちの場合は、自身の「見栄っ張りウソ」と、王様への「おべっかウソ」「パワハラウソ」が、混じり合っている。

[これらのウソの違いは、「ウソをつく」のか「ウソをつかされる」かの違いでもある。もちろん濃淡はあるが、簡単に言えば、
「見栄っ張りウソ」は自分のために「ウソをつく」行為であり、
「パワハラウソ」は王様により自分が「ウソをつかされる」行為
である。「おべっかウソ」は「ウソをつく」のと「ウソをつかされる」の両方の要素が含まれている。]

大人たち民衆のウソ

パレードを見に来た民衆たちも、王様への服従関係にあるので、ウソをつく理由は、家来たちとほぼ同様である。

それぞれの立場、相手、タイミングによって、「見栄っ張りウソ」・「おべっかウソ」・「パワハラウソ」が混じったウソをつく。

ただ、大人たち民衆の場合は、王様と直接一対一で対面するわけではないので、そのウソは、距離のあるアピールとなる。沿道で王様のパレードを見て「立派な服だ」とはやし立てる。例えるなら、ファンがアイドルに声援を送るような形になる。

その意味では、家来たちのウソと較べれば、直接的ではなく、一個人として相手に届くこともなく、切迫したものではない。

この、距離のある人に対して、事実とは異なる内容を声に出してつくウソを、

「声援ウソ」

と分類したい。

もちろん、大人たち民衆も支配される関係にいるので、「立派な服だ」と言うことは「おべっかウソ」と重なるところが大きい。しかし、ファンがアイドルに声援を送ることを「おべっか」とは言わないように、その声援の内容がたとえ事実と異なっていても、当人は本心から思っている面もあるため、「声援ウソ」は「おべっかウソ」とは違う要素を含む。また、同様に、「声援ウソ」は「パワハラウソ」の要素も含むが、自覚もないまま、より自発的に相手へウソをついている面もあるので、「パワハラウソ」とも違う要素を含んでいる。

さらに、「群集心理」には、統制されたものと個別発生的なものが入り混じり判別できない場合がある。大人たちが沿道で叫んだ「ウソ」は、強制されたものなのか、自発的なものなのか、単純に分類できない面がある。

そういった意味で、大人たち民衆、大衆からの支持コールには、自発的な「おべっかウソ」・他者からの「パワハラウソ」とも異なる、「声援ウソ」の要素も含まれている、と分類するべきだろう。

「王様はハダカだ」と言った子供のウソ

物語の中では、「王様はハダカだ」と一番初めに叫んだ子供は、本当のことを言ったことになっている。したがって、ウソはついていない。

しかし、それは、結果的に「真実」になっただけだ。

物語では、導入部で、「バカには見えない服」を作ったのが「サギ師」であると断言されているため、読者は、「バカには見えない服」がウソであることを知っている。

しかし、物語の登場人物は、そのことを知らない。それぞれの登場人物が分かっているのは、みんなが「王様は立派な服を着ている」と言っていて、自分には見えていないという事実だ。

読者の多くは、

子供が「王様はハダカだ」と叫んだことをきっかけに、「真実」を知った大人たちが口々に「王様はハダカだ」と叫ぶようになった

と理解しているようだが、この理屈がおかしいことは、以前のブログ記事で述べた。

仮に、この子供の発言に対し、「子どもの言うことだから」と片付けられ無視されたり、あるいは口封じされていたとしよう。その場合は、「バカには見えない服」という仮想の世界観は維持されたままになる。その世界観の中では、「王様はハダカだ」と言った方が(真偽に関係なく)ウソツキ扱いされる。

この子供の発言は、この物語の前提である、

「バカには見えない服」というテーマ

をひっくり返すものだ。その後、物語では、ひっくり返すことに成功した結果、「真実」になったのであり、仮に、ひっくり返すことに失敗していれば、その世界の中では「真実」を語った方が「ウソつき」になっていた。

この、テーマをひっくり返すようなウソを、

「場違いウソ」

と分類したい。

「場違いウソ」は、他のウソと質的に異なる。真偽そのものよりも、前提そのものを問うものであるからだ。場違いなの発言は、たいていは無視されるか、冗談と処理される。時には怒られたり、まれには、真偽がひっくり返こともありうる。

たとえば、分かりやすい例を挙げていくと、

「(おままごとで)100円です」←「おもちゃのお金ですよ」
「神社を参拝する人に」←「そこに神様はいませんよ」
「タカラヅカ歌劇の男役に」←「演者は女だ」
「箱根駅伝で新記録が出た」←「バイクの方が早いですよ」
「AIが名人に勝った」←「コンセント抜いたら終わり」
「感染対策に頑張ってる」←「でも布マスク2枚だよ」

などなどと、元も子もないような発言があてはまるだろう。

言っていることは「真実」なのかもしれないが、それをここで言うことなのか。実社会で場をわきまえずに以上のような発言すれば、袋たたきに合うか、つまみ出されるだけだろう。そこは、「真実」を語る場ではないのだから。

このように、子供の発言も、「真実」であったとしても、一歩間違えれば、「場違いウソ」になっていたことも留意しておくべきだろう。

[だからこそ、「王様はハダカだ」と発言することは困難であり、一番初めに発言した者だけが価値がある。]

それぞれのウソから教訓を学ぶ

童話「裸の王様」では、

「バカには見えない服」

というサギ師に作られたウソに注目が集まるが、他の登場人物も、様々なウソをついてきた。

サギ師による「騙しウソ」
王様による「見栄っ張りウソ」
家来たちによる「見栄っ張りウソ」「おべっかウソ」「パワハラウソ」
大人たち民衆による「見栄っ張りウソ」「おべっかウソ」「パワハラウソ」「声援ウソ」
子供による「場違いウソ」

様々な理由で、ウソをつき、ウソをつかされる。そこには相互作用がある。

王様は、王様の権威を傷つけることはできない、という使命感により、「見栄っ張りウソ」をついたのかもしれないが、そのウソは、家来や大人たち民衆らに「パワハラウソ」をつかさせる原因になる。

逆に、家来や大人たち民衆による「おべっかウソ」「声援ウソ」が、王様のウソを肯定し、増長させる。

この循環するウソの相互作用の流れにハマってしまうと、そこから抜け出すのは、簡単ではない。一度、「服が見える」と認めてしまっただけに、それを訂正することは、「君子」であっても難しい。(「君子は豹変す」のことわざの通り)

もちろん、ウソの循環の中にいる人がそれに気づくのが一番だが、かなり難しい。また、第三者がそれを指摘しても、ウソの循環の流れにいる人には、気づかなかったり、あるいは無視や排除したり、さらには集団で一致して攻撃したりすることもあり得る。ウソの指摘を受け入れられなかった場合は、「場違いウソ」として片づけられるだけだろう。

その意味では、そのウソの相互作用の循環の中に当てはまらないストレートな発言、「王様はハダカだ」、が重要になってくる。(そして、その「場違いなウソ」を発言できる場、許容できる度量が、王様、社会に求められる。)

物語では、子供が「王様はハダカだ」と叫んだことにより、世間は一変した。ここでは、子供は、「見栄っ張りウソ」「おべっかウソ」「パワハラウソ」「声援ウソ」をつかなくてもいい存在として象徴されており、「場違いウソ」を叫ぶことができた。

この「場違いウソ」は、同質的な集団の中心・平均的メンバーからは出てきにくい。出てくるとすれば、集団に同質化されていない、例えば、集団のメンバーに染まる前の子供や、平均から外れた周辺メンバー(多くは社会的弱者と呼ばれる)からだ。主君をやり込める道化師やお伽衆の話や、またテレビではいわゆる性的少数者に「ご意見番」的な役割を与える例などを見れば、社会的弱者を排除しないことの教訓の一つだともいえるだろう。(ただしこれを強調しすぎることは、違う形の差別を固定化する恐れがあることにも注意したい。)

子供が「王様はハダカだ」と叫んだことをきっかけに、大人たちも次々と同調して叫び出した。一度認めたことを一変すること、豹変することの難しさは先に述べたとおりで、難しいことであり、変えることの勇気は賞賛すべきことかもしれない。ただ、「周りが変わったから自分も態度を変えた」という人が多いことも事実だ。「立派な服を着ている」と言っていたのと、子供の発言後に「王様はハダカだ」と叫ぶことは、付和雷同という点では、全く同じだと言っていい。仮に、王様が、強制力を伴う権力を持ち、「ハダカ」と言った者を処罰するような対処をすれば、再び、「立派な服を着ている」と言い出すことだろう。生きていくためには必要な知恵ではあるが、真実の探求という点では、価値が無い、と判定される。


以上、童話「裸の王様」について、登場人物の様々なウソを分類し、様々な教訓について考えてみた。

このお話が、世界で広く読まれ、現代でも、たとえ話などで何度も引用されているのは、それだけの普遍的な内容を持っているということだろう。

童話「裸の王様」について、薄っぺらい表面だけの解釈で語るのではなく、すべての登場人物のウソを見ることが重要だ。そうすることで、より深い教訓が得られるだろう。

ただ、私がこの記事で、ウソの分類をうまくまとめられた気はしない。漏れもあるような気もするし、うまく説明して伝えられた自信もない。

望むべくは、このブログ記事が「裸の王様」になっていないことを。


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